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藤井 健仁

 

New Personification: 鋼鉄のグランギニョール」 - Grand Guignol en Acier -

2016年11月19日(土)~12月17日(土

会  期 2016年11月19日(土) ~ 12月17日(土)
    

開廊時間:12:00~19:00、休廊日:毎週日・月・火曜

レセプションパーティー:11月19日(土) 18:00~

このたびYOD Galleryでは、藤井健仁(Takehito Fujii, b.1967)の個展「鋼鉄のグランギニョール 」を開催いたします。

90年代より精力的に製作発表を行ってきた藤井は、鉄が近現代に生み出した「富、権力、暴力」を表象する著名人の顔を鉄の面に置き換える「彫刻刑 鉄面皮」(*)により2005年、第八回岡本太郎記念現代芸術大賞にて準大賞(大賞該当者なし)を受賞、2008年には愛知県芸術文化選奨 新人賞を受賞し、高い技術と表現方法が各方面から評価されています。

 藤井の表現は逆説に貫かれていると言っても過言ではありません。鉄鍛造という同技法同素材ながら対極的スタイルを持ち、しかもモダニズムから排斥され続けて来た「面と人形」を範とする二つのシリーズ、「鉄面皮」と「New Personification」を並行して制作している事からもそれは伺えます。「鉄面皮」では撲殺に等しい鍛造労働による殺意自体の形象化に始まりながら対象人物への善悪を超えたシンパシーに到達し、一方愛らしい人形を造形しながらもその材料である鉄との交錯の中で残酷かつ非情な制作物となる「NewPersonification」、双方とも初見の印象とは逆転した着地点を持っています。只、逆説の可能性を記号を並べての連想に委ねていくありがちな方法とも、定説に依存することで成立する当てこすりの逆説とも異なる、その逆説こそが実は本来の定説なのではないかと思わせる説得力は、作家が逆説と向き合い現実の重作業の中でそれを履行した結果練り上げられた技術と物品の強度によるものといえるでしょう。

YOD Galleryにおける初の個展となる「鋼鉄のグランギニョール」では、「New Personification」に連なる新作の少女鉄人形等を展示いたします。ぜひこの機会にご高覧賜りますようお願い申し上げます。


- 作家ステイトメント -

鋼鉄のグランギニョール

グランギニョール、斬首や血飛沫が入り乱れる19世紀末フランス発祥の残酷劇。元々は人形劇であったらしい。 だがそれを冠するこの展示にはそうした鬼面人を威すが如きイメージを置く予定はない。準備されているのは控え目に改変された、いたいけな姿態の少女鉄人形だけである。

ではそれがどうしてグランギニョールなのか。素材と内実、鉄と人形の出会い、それ自体が残酷に相当するものであるから。しかもここ数百年で屈指の。なぜなら前近代迄、人形の祖である神像呪物は信仰の対象としてコミュニティの中心にあった。だが鉄の時代、産業革命を経て信仰の対象は経済及び科学に移ってゆく。ならば鉄と人形は世界の中心の座を巡って、未来と過去、駆逐した物とされたもの、それぞれ双方に相容れぬ対極的要素という事になる。鉄で制作される人形はこうした巨大な転換をその小さな肢体の中に招き入れざるを得ず、未来永劫軋轢に引き裂かれながら存在し続ける。しかもいたいけにはにかみながら。 
制作に際しては昔ながらの手作業がもたらす質と強度は不可欠だが二つの要素それぞれが帰属するイメージのどちらにも偏らないよう留意する。だが記号からの連想に留めるのならばそこまでの労働は必要ない。二項を調停したまま先に進み、軋轢の果てにあるものを実際の物品として目の当たりとする為に必要となる労働である。 
その物品の仕上がり次第によっては、ありえたかもしれない、別の「鉄の時代」を示唆する可能性もある。50年来、児童(特に男児)に支持されその想念に働きかけてきたロボットアニメーション、いわば「鉄の人形劇」は未だ定位されていない集合無意識の祖型なのではないかと思えるように。 

藤井健仁 2016.10.3 


*彫刻刑 鉄面皮について 
何故、鉄で顔を作るのか

鉄という素材は、兵器や都市、モータリゼーションを加速度的に近代化させた事によって近現代世界の基底材となりました。近代化によって発生した巨大な権力、圧倒的な貧富の格差、そしてそこに生じる恐怖、憎悪、傲慢・・そうしたものは鉄から派生した物なのです。いいかえるならばそうした現代の鉄にまつわる事象は人類が鉄という素材から感じられたイマジネーションの発露でもあるのです。戦艦や剣、そして高層ビル等が「人間」によって立ち現された「鉄」であるならば、近現代という、鉄が生み出した状況によってアイデンティティーを獲得、或いは維持している人物達は「鉄」によって立ち現された「人間」であるといえます。ですから彼らの顔を彫刻する際に鉄を素材として制作するならば、他の素材(木、石、ブロンズ等)には及ぶべくもない親和性を発揮するのも自明であると考えます。

私の顔彫刻は一枚の鉄板をバーナーで熱しながらハンマーで叩いて造ります。ですから表面があるだけで中身は空洞です。顔彫刻を制作する際、鉄板の表と裏を叩いていくのですが、内面や精神性によって形成される部分は 裏側(内側)から、外的要因及び社会性によって形成 される部分は表側(外側)から叩いて造形します。丁度それは実際に人物の風貌が形成されていく様と同じであり、内と外が拮抗する境目である顔の表面こそ、個の存在の在処であるという事が制作手法にも反映されています。そしてその個人の存在そのものとも云える表面の起伏をトレースして行く事はその生の追体験でもあり、対象存在への善悪を超えた肯定感さえ芽生えて来ます。(ある種の愛情に近い感覚かもしれません)けれども彫刻がそのモデルの人物に「なった」か否かは、ある種の殺意に近い感情によって判断します。人物の頭部状の彫刻をハンマーで打ち据えてて行く中で、像がモデルとのシンクロ度が高まってゆき、一瞬、そのモデルの人物に対して害意を伴った暴力を振るっているかのような錯覚を得る事が出来、そこで作業を終えることが出来ます。この様な彫刻を造る為には殺人を可能にする量とほぼ同じ労働量を必要とするのかも知れません。「存在の肯定(愛情に近い)」や「殺すこと」、それらが「造ること」が同義語となった地点に立つ事によって

はじめて像が完成できるのです。これらの顔彫刻は人間が直に接する間合い(親和的関係での間合い、もしくは直接害せる間合い)での気配を再現しようとします。そこには地位や権力等の属性が及ばない、全方向からあけすけに見渡し、眺めることの出来る「単なる個」、「等身大の生」しか存在しません。この制作は、彼らモデル達の姿を「鉄」を媒体として顕すことによって逆に「鉄」にあたえられたアイデンティティーを相殺し、「等身大の生」に還元しようとする行為であります。私に撲殺されるかのようにハンマーで叩かれて造形され、そして見おろされ、眺め回される位置に置かれる像とされること・・・これは私がモデル達に出来るささやかな「刑」でもあるのです。

 本作、彫刻刑「鉄面皮」においては、個々に作られた頭部を「さらし首」状に配置しました。「さらし首」と、人物顕彰碑(いわゆる銅像)とは対称をなす物ですがそこに載せられる人物が時代や地域によって異なるだけであり、実際には同じ内実を持つ物と思います。この作品は世界中に存在する彫刻の大多数を占めているであろう、人物顕彰碑へのオマージュでもあるのです。

2003.6.14 藤井健仁

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